→広がる空の色。


「見ていれば、わかるよ。ようく見ていてご覧」

 それは、しきりに弦を弄る楽師に、「それは何ですか。何をやっているんですか?」と尋ねた時の答えだった。
 慣れた手つきで繰られる細く透明な糸が、綺麗な弧を描く木塊に張られていく。
 三日月型に削られた一寸大きい木の塊には、独特の文様が彫り付けてある。それが何なのか…。幼いレゥシェン――他の人にはレウと呼ばれている彼女の、まだ多くはない知識では見当もつかなかった。
 けれど、どこかで見たことがあるような。
 それがもどかしくて、急かす様に尋ねたのだ。
 
「見ていればわかるよ」
「そ、そうですか?」
 楽師が青い眼を柔らかく細めて言うので、レウは言葉に従い黙ってみていた。
 
 「見ていれば分かるよ」という言葉は、楽師がいつも彼女に言うものだ。
 すぐに答えを聞くより、強く記憶に残る。
 楽師はそう言う。彼女よりずっと長く生きてきたであろう楽師は、物知りで、穏やかで、とても落ち着いている。
 
 実際の年こそ知らねど、楽師はちょうどレウの祖母ぐらいに当たる年齢だろうか。
 もっとも、レウに家族は居ない。
 踊りの師匠の姓を借りて、今はレゥシェン=アーヴェルカンプを名乗っているが、血のつながりのある人は周囲に一人も居ない。
 無論、この世に生まれている以上、父が居て母が居てという係累がある。レウはハーフエルフ…エルフと人間の間に生まれた子供だ。父が人間で母がエルフであったらしい。
 らしい、という推定の形になる理由は、団長に伝え聞いたことだから。

 そして、ずっとずっと前から、両親は傍に居なかったから。

 生まれたのは、古い習慣を多く残したエルフの里。父母の間に出来た彼女は…過ちの子とされたのだ――と、聞いた。
父が若年で亡くなってすぐに、母親の手から幾許かの金銭と引き換えに旅芸人一座に売り渡されたのだそうだ。如何にも安っぽい劇にでもありそうな、その事実さえも伝聞であり。
 また、何もかにもが、物心もつく前のことであった。
 座長に話を聞いた後も、レウは正直母にもエルフ達にも恨みの抱きようがなかった。旅芸人一座の中には出自に拘る雰囲気はなかったし、何よりどうしようもないことだと思った。

 不幸だとは考えていない。
 家族というならば一座の団員がそうであり、座長が母親で、師匠が父親のようなものなのだ。
 本当の家族というものを知っているのかといわれても、ハイと断言は出来ない。
 でももし、家族が居るならきっと一座の皆のように温かな人で。「おばあちゃん」という人がいるなら、きっと楽師みたいな穏やかで思慮深い人のことなんだろうなあと彼女は思っている。

「おばあちゃんと、呼んでもいいですか」
「うん、うん。良いともさ」
 そう呼ばれるのは嬉しいと、優しい笑顔が返ってきた。レウのことを孫のように思っていたと楽師は言った。
 また、彼女も、そう言われるのは嬉しかった。

 長い指が器用に糸を操る。自分がやったら、こうはいかないだろう。あまり大きくはない手の、細い指で髪を撫で、ぼんやり作業を眺めながら少女は思う。
 少しずつ、時間は過ぎていく。
 長かったのか、短かったのはよくわからないけれど、楽師が大方糸を張り終えた時にレウはようやく気づいた。

「あ…竪琴、ですか。全然気づきませんでした」
「そう、正解」
「いつも弾いてるやつですね」
「そう、そう」
「とても大事にしてらっしゃるんですね。おばあちゃんの宝物なんですね」
 
 寡黙な彼女は、優しく微笑み頷くだけで多くを語りはしなかった。けれどその日からは様々な伝承歌だけでなく、竪琴の扱い方も教えてくれるようになった。楽師は良い師匠であったし、レウも踊りの稽古と並行して倦まずによく学んだ。

 それでも、なかなか技術を自分の物に出来ないうちに、月日は流れていき…。


***
「レウー。ぼーっとしていると、また仕事を逃すぞ」
 店主に声をかけられてふと我に返った。

 傍らのテーブルには、いつものジンジャーエール。
 手には、最近ようやく人に聞かせられるぐらいの音色が出るようになった竪琴がある。
 朝食を終えて少し経って…まだ昼前なのに、今日は窓から強い陽射しが入ってくる。暑く、眩しい光に目を細める。その後、カップに残ったジンジャーエールを飲み干し、店主の声に気づいて立ち上がりかけた。

「あ、ハイ。ありがとうございます…あ。」
 そうして依頼掲示板を見ると、其処には既に黒山の人だかり、である。
 今回は、いや今回もまた冒険者の仕事を得るのは難しそうだった。
「あぅー…。お、遅かったみたいです」

 呟いてふと窓の外を見る。
 そういえば、今日は良い天気だということに気づく。
 他にも雑事は沢山入ってきそうな日和だ。店にいればきっと、危険な仕事以外の日常的な仕事で幾らか稼げるだろう。ただ、その日はなんとなく黙っている気が起こらなかったものか。

「…あ、店主さん。私、一寸出かけてきますね」
「おいおい、仕事はいいのか?」
「ハイ。正しく言うと、別種の仕事ですから!」
 
 呆れ顔の店主の問いに、律儀に答えて走り出す。竪琴を抱えて、店を飛び出した。
 思ったとおり、空は晴れて、とても綺麗で。風は心地よく肌に触れ、流れる。


「蒼穹は全ての存在の上に広がる」

 竪琴に刻まれた意味不明の言葉だ。今は、刃物でつけられただろう古いその文字を、読むことも出来るし理解することも出来る。
 こんな天気の良い日。広場へ行けば、さぞ気持ちよく踊ることができるだろう。空気が気持ちが良くて、足取りも軽く、四肢を伸ばして。
 けれど、今は奏でたいと思った。ぴんと弦の張られた竪琴を…遠く西方に伝わるという素朴な曲を。
 
 ふらりと居なくなった師匠を追って、旅芸人の一座を離れることになったとき、楽師は既にこの世の人ではなかった。その何年も前に楽師は天寿をまっとうしている。
 その時に、楽師が大事にしていたこの竪琴を譲り受けた。
 長く年月を重ねた「おばあちゃん」の、穏やかな、眠るような顔を、彼女は今でも思い出せる。
 そして、時々、あえて思い出す。
 時にはぬくもりとともに。時には、涙とともに。

 全ての上に広がる空を見上げ――。



 どれぐらいの時間が経ったか判らないが…。
 太陽が天高くに上り、段々と傾き始めた頃。

「あっ、あれっ?何でこちらに?」
 演奏の手を休めると、広場には、見知った顔があった。
 今頃、紅い夕風亭の皆が皆、一杯貼ってあった依頼板の仕事に行っていると思っていたので、物凄く不意を突かれた。ほとんど化粧もしていなかったレウの顔に血が上って、真っ赤になる。
 この人も仕事にあぶれたのか、それとも…。

「も、もしかして…聞いてましたか」

 頷く笑顔を見て、茹で上がったように真っ赤になる。

「あ、あぅぅ…。ひ、人が悪いです…言ってくれたら、止めたのに…」

 夕風亭では、時たま踊らせて貰うことはあっても、竪琴を弾くことはない。自分よりももっと上手な人は幾らでも居るし、何より気恥ずかしさが先行してしまう。
 弱気に抗議するレウ。
 と――差し出されるジンジャーエール。

「あ、ハイ?…えぇと此れは。その。いただけるんですか?お外で飲めるとは…えぇ?其処のお店で買ったんですか、あ、ハイ」

 簡易なカップに、控えめに入ったジンジャーエール。レウの大好物だった。
 其処の店で買ったのだと、指差す先には、ティータイムで賑わう露店やらカフェやらが並んでいる。

 曲の、お代に。

 そう言われて再び赤面して俯く。戸惑いながらも感謝の言葉を告げて、ありがたく受け取る。
 遠慮せずに飲んで、と勧められたジンジャーエールの味は、恥ずかしさのあまりほとんどわからなかった。微かな甘みと弾ける炭酸が舌を刺激するのは、感じたけれど。

 途中でやめることはないと言われて、再び糸に指をかける。

「それじゃ、あの…もう一曲。昔聞いた――大好きな曲を」

 柔らかな旋律が流れる。
 心地よい風と共に。広がる青い空の下。

 レウは、大切なものへの感謝と、安らぎを、素朴な歌声に乗せはじめた――。


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