→月の夜に。


  今夜は、少し暑い月の夜。半月は俄かに空に流れ出したうす雲で、少し光を翳らせる。
  湿度が高いのか、蒸し暑く。寝苦しそうな夜のこと。
  これは、大都市のある一角にて。新興だが活気に満ちた冒険者宿での一幕である。


  いつでもこの酒場は喧騒に満ちている。
  煩わしく絡まるでもない、穏やかで心地の良い人の気配に満ちている。
  深夜ですら、誰かしら人はいるもので――。

  それが今日に限っては誰もいないのが、青年にとってはとてもとても珍しいことだった。
  たった一人の客のために、店主を残してしまっているのは、なんとなく申し訳ないような気もしつつ、気にするのは止めて。木のコップに半分ほどの安いエールを、これも安いつまみと共にちびちびあおりつつ、彼はぼんやり店主が皿を磨くのを見ていた。

「おう、お前、いつになくぼーっとしてるな…」

  漂うひたすらの沈黙の中で、店主にそう突っ込まれるまで、左程時間はかからなかった。
  いつもぼーっとしているとでも言うのかとも思ったが、あまり気にせず、エールをまた、一口。

「そーかぁ?」
「おう。いつもぼーっとしているが、今回は特に…て感じだな。妹のあの賢しさを少し見習ったらどうだ」
「はははっ、あいつなんか見習ってたら俺過労死すっから」

  妹――は同じくこの宿屋に寝泊りしている、「あの」妹のことを指すのだろう。齢14にして盗賊と情報屋と神官と、…よくもまあ賢しく動き回るものだと半ば呆れ、半ば感心させられているあの妹。
  案外兄である自分より強かったりして。と思わないでもない今日この頃。パーティを組めば盾にされ、結構な情報をもってきてくれるはいいが東奔西走させられる。尻にしかれている気がしないでもない。

「年の割によくやるよなぁ、あいつさー」
「お前も年の割に老け込みすぎだ」

  しみじみ呟くと、店主からつっこみのおたまが飛んできた。
  一応、おたまを片手キャッチして、律儀にカウンターの店主に返しておく。
  老け込んでるのかぁ?と首を傾げると、老け込んでるぞ、16とは思えんと返ってくるときたものだ。
  あんまり自分の年齢を気にしたことはなかったが。年の割にしっかりしている――といわれるのが、そういえば自分達兄妹の常なような気がした。

  またしばらく、沈黙の時は流れ。


「しかしこの宿にも色んな連中が集まるようになったもんだ」
「そうだなぁ。随分腕利きの奴も居るようになったもんなあ。あやかりてー。」
「…。高位の精霊使いに神官、戦士、ドルイド、盗賊、魔術師、詩人達まで、此処まで人材が集まったのもなんかの縁なんだろうなあ」
「まあ変なのも大分多いがなぁ…」

  とエールを飲みながら言ったら、自分の方に視線が飛んできたことは、意識から除外した。

「ま…ただこれだけ集まるとな…。もう随分と見なくなった奴も居るし…故郷にしばらく帰ったり、事情があって居なくなったりする奴も結構いるもんだ」
「そうだなぁ」

  共に冒険をしてきた仲間達。姿を見かけなくなって久しい者も随分居る。
  最近だと――。

「部屋の扉に張り紙残してどっかいったやつとかいるなぁー」
「それは――」

  何処に言ったのやら。そいつのことをあえて名前を出さずに呟くと、店主がちらりと階上の宿屋部分を見た。青年も、もし見上げたとすれば、数多ある扉の一つに、羊皮紙が一枚張ってあるのが視界に止まるだろう。あえて見上げはしなかったが。

 『――居ません。』

  素朴な羊皮紙に普通のインクで、ただ一言だけ書かれた言葉。
  数日前から張られている紙。簡単な内容だから、わざわざ確認するまでもなく、覚えている。

「お前は捜さんのか?心配するとかよ」

  店主に問われ、青年は肩をすくめた。

「帰ってくるだろ。」
「…おいおい、随分薄情というか適当だな。まあ俺様も一介の店主として、宿代ももらってるし、文句はないがよ…」
「……『自分の畑は自分で耕せ』――」

  青年がふと呟いた言葉に、店主は首を傾げつつも、続きを待つ。

「『そこにある土を知るのは自分。そこにあう作物を知るのは自分。その大地を守るのは自分。その大地を育てるのは自分』――つまり誰かの助けが必要な時にしろ、最終的にどう決めるかっていうのは本人次第ってことさね。何かしら迷いがあって旅に出たなら、迷いが解決すれば戻ってくるだろ、いつかは。」
「そんなもんかねえ」
「『畑』…自分自身を豊穣の地にするのも、不毛の荒野にするのも、自分次第さ。迷いのない奴なんざいねー。旅の終わりはあいつが自然な状態に戻った時だろ。心配すれば帰ってくるわけでなし。さよならって言ったわけでなし、そのうち帰ってくると思うぜ俺ぁ」
「ふぅむ」
「第一何もかも投げ捨てて逃げ出す年じゃないだろうや。そういうの許すタイプでないだろし。あいつなら、大丈夫でなんじゃね」

  また、エールを一口。わずかに開け放たれていた窓から、湿り気を帯びた風が一陣吹き込む。

「ただ待つのも、信頼があればこそさね。どうでも良い奴なんか待ちも捜しもしねーよ」
「…お前に説法を聞くとは思わんかったなぁ…」
「自分、これでも神官の端くれデスカラ」

  けらけら笑ってエールを一気にあおる。空になった木のカップに、もう一杯を所望する。
  注ぎ足す店主は、「やっぱりお前老け込んでるよなあ」と改めて言うのだった。

  月にかかった雲は過ぎ。星も、一つ、二つ。淀んだ夏の空気の中、空に輝く。

  そのほのかな輝きを、居なくなった者は何処で見ているのだろう。
  そして、あの旅人は、何処で見ているんだろう。

  そんなことを思いながら、月に乾杯し、またエールをあおる。
  そうして夜は更けていくのだった。




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